日本音楽理論研究会

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J.S.Bach:ミサ曲ロ短調;大分ムジークアカデミー演奏会プログラム(2012年8月11日土曜日 大分市iichiko音の泉ホール)

解説 J.S.バッハ 『ロ短調ミサ曲』

 

■ はじめに

 

 「ミサ曲」とは、キリスト教カトリックの典礼の式文のうち「キリエ」「グロリア」「クレド」「サンクトゥス」「アニュス・デイ」の5つに付曲したものをさします。この点から本日演奏されるJ.S.バッハの『『ロ短調ミサ曲』』は、キリスト教プロテスタントの創始者であるルター派を信仰していたバッハが、同じキリスト教とはいえ、カトリックの典礼のために作曲したことになり、従来からその点について議論が絶えませんでした。また現在我々が完結したひとつの作品として『『ロ短調ミサ曲』』と呼んでいるこの楽曲が、実は異なる時期に別々に作曲されたことも分かっており、ひとつのまとまった作品としてみなすことの是非も論議の的となりました。

 はたしてバッハの『ロ短調ミサ曲』とはいかなるもので、どのようにして現在の姿になったのでしょうか。またその魅力はどこにあるのでしょうか。

 

■作曲の経緯

 

 『ロ短調ミサ曲』が生まれたきっかけは、バッハが48歳の年の1733年にさかのぼります。バッハがザクセンの中心地ドレスデンの「宮廷付き音楽家」の称号を望み、『『ロ短調ミサ曲』』の第1部となる「キリエ」と「グロリア」(「ミサ」と表題が付されている)をザクセン新選帝侯アウグスト2世に献呈したことに始まります。当時バッハが楽長として勤務していたライプツィヒの聖トマス教会では、バッハと教会との間でいざこざが絶えず、そのために、同地を治めるザクセン選帝侯の後ろ盾を欲したわけです。

 「宮廷付き音楽家」の称号を得たバッハは、その後ミサ曲式文全体に付曲するべく、旧作の改作をベースにその完成に取り組んだのでした。第2部「ニカイア信条」(一般に「クレド」とも)と第4部「オザンナ、ベネディクトゥス、アニュス・デイそしてドナ・ノビス・パーチェム」はバッハの晩年(1748〜1749年)に完成されましたが、第3部「サンクトゥス」はすでに1724年に作曲されていた同名の曲があてられ、再度バッハの手により書き写されました。

 このようにして現在私たちが『『ロ短調ミサ曲』』の名で知っているバッハの作品が誕生しました。けれども最初に記したように本来のミサ曲は5部構成ですが、バッハでは4部構成となっています。これは選帝侯へ献呈するために「キリエ」と「グロリア」をまとめて第1部「ミサ」としたこともありますが、そもそも当時のライプツィヒではルター派の慣例として、ラテン語ミサ曲の使用が認められていて、「キリエ」と「グロリア」をセットにして「ミサ・ブレビス」(小ミサ曲)と呼んでいました(バッハはこの小ミサ曲を4曲残しています)。さらに「ニカイア信条」と「サンクトゥス」の前半までを用いることとなっていたのです。バッハは完全なミサ曲とするためサンクトゥスの後半、オザンナとベネディクトゥス、および本来は別の式文であるアニュス・デイをまとめて第4部としたわけです。さらにはルター派の伝統に従い式文の一部変更なども見られ、冒頭に記したような議論が呈されたわけです。

 事実1954年に新バッハ全集の一冊として発刊された『『ロ短調ミサ曲』』の楽譜を校訂したF.スメントは、このミサ曲が「4つの個別的な楽曲の集合に過ぎない」と主張しました。また同じ頃別のバッハ研究者F.ブルーメから、「晩年のバッハは教会音楽の創作に背を向けていた」という意見も提出されていたので、スメントの主張はかなり広く受け入れられ、スメント校訂の楽譜のみならず、当時発売された同曲のレコード・タイトルも、上記4部構成の表題をそのまま記したものが見受けられました(スメントの校訂した全集番のタイトルページには、上記4部のタイトル併記の下に「後にロ短調ミサと名付けられた」という注意書きまで添えられていますが、2010年に刊行された最新の研究成果を取り込んだ改訂版ではタイトルをめぐるこのような問題は解消されています)。

 けれども現在では新たな発見と研究の進展の結果、こうした仮説はくつがえり、バッハは晩年に至るまで教会音楽をおろそかにすることなく、教会の楽長としての職分を全うしたことがほぼ確実視されています。『ロ短調ミサ曲』もこうした状況の中で、バッハの筆により1748年から、彼がおそらく眼病のために書き仕事をやめてしまう49年10月までの間に、その大部分が完成していたと考えられるようになりました。

 

■楽曲の構成

 

 ところで、スメントの言うように『『ロ短調ミサ曲』』を完結したひとつの作品として見ることは根拠のないことなのなのでしょうか。一見無秩序に合唱と独唱、重唱が配されているように思える『ロ短調ミサ曲』ですが、音楽学者ブランケンブルクが述べているように、そこには偶然ではない、意図的な楽章構成を認めることができます。第1部は「キリエ」-「クリステ」-「キリエ」と3部構成をなしますが、両端が合唱であるのに対し「クリステ」は二重唱かつ長調。最初の「キリエ」はロ短調に始まるのに対し、2度目の「キリエ」ではその5度上の嬰ヘ短調と、編成上の対称性と調性上の対照性を示します。また2度目の「キリエ」では古様式とよばれる16世紀の教会音楽(パレストリーナ様式)を模したスタイルで作曲され、これまた最初の「キリエ」と書法上の対照をなします。

 続く「グロリア」の第3(6:通し番号。以下同じ)曲目から第9(12)曲目では第6(9)曲「クイ・トリス」を中心に独唱・重唱・合唱が各々シンメトリーに配置されています。第2部「ニカイア信条」ではやはり全9曲が第5(17)曲目「クルチフィクス」を軸に、独唱・重唱・合唱が各シンメトリーに配置されています。この「クルチフィクス」は古様式の書法で作曲され、さらにそれを支えるバスに伝統的なラメント・バスを、それも胸を打つ音を模した四分音符の刻みで導入し、テキストの内容が器楽によって強く説明されます。

 また最終曲第27曲では、テキストは異なりますが第7曲の音楽が再現するため、このミサ曲全体の有機的関連性が強調されます。

 これは偶然でしょうか?やはりバッハが、全体に一貫した構築性を与えようとした結果であると私は思います。

 

■ 『ロ短調ミサ曲』の魅力

 

 以前は『ロ短調ミサ曲』が1730年代に完成したと考えられていたこともあって、バッハの晩年の大作といえば、対位法的作曲技法の集大成としての『フーガの技法』だけが取り上げられたものでした。けれどもバッハが晩年に『ロ短調ミサ曲』を完成したことが判明した現在では、『フーガの技法』ならんで、宗教音楽の分野における総決算として『ロ短調ミサ曲』に新たな光が当てられるようになったのです。そこには宗派の対立を超えた全教会的理想への志向が見て取れます。けれどもそれをバッハ個人の功績に帰すとすれば、いささか過剰な評価かもしれません。最新の研究ではバッハ存命中より、ライプツィヒではラテン語ミサがドイツ語カンタータに代えて上演される機会が増えていたことが判明しています。バッハもまたそうした時代の流れにおいて汎教会的な典礼音楽を志向したと考えた方がよさそうです。

 『ロ短調ミサ曲』を評して「まるで対位法の解答を聞いているみたいだ」といった口の悪い先輩がいましたが、はたしてバッハの死後『ロ短調ミサ曲』は作曲の模範として、バッハの弟子を含む理論書で引用・言及され、楽譜自体も(ドーヴァー海峡を越えイギリスまで)流布していました。かのJ.ハイドンは同曲の筆者譜を所有し、ベートーヴェンもこの『ロ短調ミサ曲』の楽譜を入手しようとしたといいます。そして1818年に『ロ短調ミサ曲』の出版広告が登場します。

 たしかに『ロ短調ミサ曲』には中世の単旋律聖歌(グレゴリオ聖歌)、古様式(パレストリーナ様式)が取り入れられ、さらにコンチェルト様式やダ・カーポ・アリア、フーガなど、バッハ自身およびに先立つ西洋音楽の主たる要素が、極めて高いレベルにおいて組み込まれ一体化しています。この点においてもまた『ロ短調ミサ曲』がフーガの技法に比肩すべき作品であることが証され、まさにこの伝統を統合した宗教音楽であることこそが『ロ短調ミサ曲』の魅力であるといえます。

 

 『ロ短調ミサ曲』はバッハの生前、全曲演奏されることは一度もありませんでした。最初の全曲演奏は、なんと作曲者バッハの死後100年以上経った1856年のことでした。そして私たちは今夜、この作品の全曲演奏に、ここ大分の地ではじめて接することができるのです。さあ、ご来場くださった皆様、魂の音楽に耳を傾けようではありませんか!

 

 末筆ではありますがこのような魅力ある、価値高い企画を発案し、実現してくれた大分出身の若き音楽家たちと大分ムジークアカデミーに、心からのお礼と感謝を申し述べたいと思います。

 

文 大分県立芸術文化短期大学音楽科教授 小川伊作

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