モンテヴェルディの「聖母マリアの夕べの祈り」
はじめに
クラウディオ・モンテヴェルデイClaudio Monteverdi(1567-1643)- 西洋音楽の歴史を振り返ってみたとき、その作品に内在する表出力の強さ、技巧の多様性、的確な楽器法そしてなによりもテキスト(歌詞)の持つ語感を的確に表現することにおいて、この音楽家は計りがたいほどに大きな存在です。いささか言い古された言い方をすれば、J.S.バッハ(1685-1750)とともにバロック音楽の最初と最後にそびえる2大巨峰にたとえられます。たしかにこの二人にはいくつかの共通点が見られます。ご承知のようにバッハは人生後半をライプツィヒの聖トマス教会の楽長として過ごしましたが、モンテヴェルディもやはりその人生の後半をヴェネツィアの聖マルコ大聖堂の楽長として仕事をしています。また現代の我々がその音楽から受ける印象からは以外とも思えることですが、両者共に当時の音楽の潮流の中では、革命的というよりは保守的な音楽家であったことも共通しています。しかしかたやドイツ、かたやイタリア。その生年は120年近くの開きがあり、この二人の音楽家を取り巻く社会状況そして音楽状況にも大きな違いがあります。そしてなによりも重要な事は、その音楽作品はそれぞれが強烈な個性に裏打ちされたユニークな存在であることです。そこには安易な比較や凡百の賛辞を断固として拒絶する生命力さえも感じることができます。
1.モンテヴェルディについて
クラウディオ・モンテヴェルディ(以下モンテヴェルディ)は1567年5月15日にクレモナで薬剤師の父の息子として生まれました。経済的には決して豊かとはいえなかったようですが父はモンテヴェルディを5才年下の弟ジュリオ・チェーザレとともにクレモナ大聖堂楽長のマルカントニオ・インジェニエーリのもとで音楽教育を受けさせました。弟も長じて音楽家になりますが、彼の作品はわずかしか残っていませ。しかし編集者として兄の曲集を編んだ際、兄の解説文を収録したことは重要な点です。モンテヴェルディが早くから音楽に優れた才能を示していたことは、モンテヴェルディが15才の年、1582年に最初の作品集(宗教曲集第1巻 ヴェネツィア)を出版していることから伺えます。モンテヴェルディはその後たて続けに曲集を出版します(宗教的マドリガーレ集 1583;カンツォネッタ集 1584;マドリガーレ集第1巻 1587;マドリガーレ集第2巻 1590)が、その間モンテヴェルディは音楽家として独り立ちをするための道を模索していたのでした。もちろん当時のクレモナはすでにヴァイオリン製造のメッカとしての地位を確立しており、後のストラディヴァリ、グァルネリといった名工の師ニコラ・アマティを産んだ、アマティ一族が16世紀から活躍していましたし、美術・文芸においても近隣諸都市に見劣りすることなく、総じて人文主義的な活力がみなぎっていた事は確かでした。しかし自立するための必要な条件、すなわち定職を得ることがクレモナの町の中ではかなわなかったのであろうと思われます。当時音楽家は王侯貴族もしくは教会に楽士として召し抱えられる事が普通であり、今日のような自由業的なライフスタイルを確立するのはもっと後、モーツァルトぐらいからのことでした。余談ですが折り合いの悪さから庇護者コロレード司祭のもとを飛び出し、ウィーンで自由な音楽家としての生活を始めたモーツァルトは近代的な意味での芸術家のはしりといえましょうが、彼自身が召し使いと同様の扱いを受ける事に不満を述べていることは、当時の音楽家の社会的地位を考えるとごく当然の事であったのです。
話しを戻しましょう。モンテヴェルディのこうした就職活動にチャンスを与えたのは、ミラノの貴族ジャコモ・リッカルディでした。最初リッカルディは、ミラノの大聖堂の楽長の欠員に立候補するように助言しましたが、結果は失敗でした。しかしモンテヴェルディは1590年に出版されたマドリガーレ集第2巻をリッカルディに献上し、感謝の意を表わしています。この年モンテヴェルディは次のチャンスに出会います。マントヴァ公ヴィンチェンツィオ・ゴンザーガの宮廷で音楽家の増員が行われたのです。1587年にマントヴァ公となったヴィンチェンツィオの美術、音楽、文学に対する情熱は、芸術を擁護するゴンザーガ家の伝統の中でも突出したものでした。先のリッカルディとマントヴァ公が友人であった事も関係があったのかもしれませんが、23才のモンテヴェルディは「ヴィオラ奏者 suonatore di vivuola」としてマントヴァの宮廷で音楽家としての一歩を歩み出したのです。
「ヴィオラ」は弓奏楽器の総称として用いられましたが、ここではヴィオラ・ダ・ガンバ(足でささえるヴィオラ)もしくはヴィオラ・ダ・ブラッチョ(腕で支えるヴィオラ)を指していると考えられます。ヴィオラ・ダ・ブラッチョはヴァイオリン属の総称として使用されていましたが、ヴィオラ・ダ・ガンバは16世紀からヴァイオリン属とともに用いられた弓奏楽器で、明確にヴァイオリン属とは区別されていました。6コースの弦を備え、ネックにはフレットが巻かれ、弓は下手持ちの奏法をとり総じて控え目な音量と細やかな音色を特徴とするヴィオラ・ダ・ガンバは、当時独自の地歩を築いていました。冒頭のモンテヴェルディの肖像は、手に低音用のヴィオラ・ダ・ガンバを持ち、背景の壁には小型のヴィオラ(ヴィオラ・ダ・ブラッチョ?)が描かれています。
2.モンテヴェルディとその時代
さてモンテヴェルディがマントヴァの宮廷音楽家となった1590年が、芸術そして音楽にとってどのような意味を持っているのかを少し考えてみることにします.強大な王権を背景にした絶対主義の社会まではまだ時間があり、諸侯の争いが絶えませんでした.社会の安定を妨げた大きな要因は宗教でした.1517年ルターによって宗教改革が行われると、それはまたたくまにヨーロッパ全土に波及し、対するカトリック側はトレントの公会議によって巻き返しを計ります.その結果ドイツとフランスではではルターに端を発する宗教改革の余震が、16世紀末から17世紀始めにかけて深刻な宗教的対立に発展し、社会の安定をみるの17世紀に入ってからになります.特にドイツはは30年戦争終了により、社会の安定はさらに遅れます.もちろんそうした争いの間、音楽が必要とされなかったわけでは決してなく、宮廷の内外で宗教音楽や世俗音楽が演奏されましたが、新しいスタイルの音楽を産み出す活力を持つまでにはいたらなかったようです.イギリスではエリザベス一世のもとでの安定した社会を背景に、爛熟した文化が開花します.音楽ではギボンズ、バード、モーリー、ダウランド、ホルボーンといった音楽家が、宮廷、教会の内外で豊かな音楽を響かせていました.しかしそれらは基本的に15世紀以来の多声音楽の伝統にそったもので「遅咲きのルネサンス」とでもいうべきものでした.モンテヴェルディが生まれたイタリアに目を転じてみましょう.15世紀にルネサンス発祥の地として他の地域に先駆けていたイタリアも、16世紀に入ると諸国家は大国の支配下・影響下に置かれ、独立国としてはわずかにヴェネツィア一国をかぞえるのみでした.しかしこうした不安定な状況下においてさえ、あるいはそれゆえにこそ音楽に、美術に持てる力をそそぎ、新しい芸術、バロックの確立をなしとげたのはイタリアならではといってよいのかもしれません.
バロック-それはルネサンスの静的・均質・調和に対し動的・異質・対照を特徴とした芸術様式をさします.絵画、において水平・垂直の構図から対角線の構図への移行.すべてが明るく照らされた世界から明と暗の対照への移行にそれが端的に見られます.音楽においてもたとえばオケゲム、ジョスカン、そしてパレストリーナに至り均質なポリフォニーの響きが完成に向かうのと平行して、異質な響きの並置による対照効果、言葉の内容のより直接的な表現を求めるようになってきたのでした.おりしも1594年にはラッソとパレストリーナという2大巨星が世を去り、音楽の世界も大きな変革の時期を迎えます.モンテヴェルディはまさしく社会のそして芸術の転換期に遭遇した音楽家であったといえます.
3.バロックの曙
音楽の革新に大きな貢献をなしたのはまずフィレンツエでした.14世紀以来空白時代を挟みながら同地の支配者として君臨してきたメディチ家は、また芸術のパトロンでもありました.古くはマサッチオ、ウッチェルロ、フラ・アンジェリコ、ボッティチェッリらが活躍し、さらにダ・ヴィンチ、ミケランジェロを育てたここフィレンツェが、音楽においても他の地域に先んじていたとしても不思議はありません.音楽の改革の中心になったのはメディチ家と深い関係のあったヴェルニオ伯のバルディでした.彼は自宅を学者、詩人、音楽家に開放し、カメラータとよばれる一種のアカデミーを開きました.
バルディ家に集まった人文主義者たちは、古代ギリシアの演劇をなんとかよみがえらせようと模索を続け、その結果当時一般的であった多声音楽にかわるモノディと呼ばれる新しい音楽様式を開拓しました.これは一本の旋律を低音と和音で支えるというもので、その目的とするところは歌詞(言葉)内容をそれにふさわしく表現することでした.また当時の多声音楽では特定の歌詞が音楽に合わせて幾度も反復されることが通例であり、それによって歌詞が本来そなえている詩としての形式美が損なわれることも批判の的になっていたのです.カメラータの一員であったヴィンチェンツィオ・ガリレイなどはポリフォニーは「およそいっさいの詩の敵である」と言い放ったほどです.その様な経緯の中で現存する最古のオペラ「エウリディーチェ」がカメラータのメンバーであったカッチーニとペーリによって作曲されました.カッチーニの方はさらに1601年に「新音楽」題したモノディ集を出版します.この序文には先に述べたモノディの目的について興味深い記述が見られます.たとえば「歌詞の情緒を表現するためには、あえて旋律の美しさを無視してもよい」という根本的な考え方.それと併せて情緒を適切に表現する助けとなる種々の装飾法についても触れられています.実をいえば16世紀末のフランスでも歌詞の韻律にそった旋律のあり方が探求され(韻律音楽)、その影響は17世紀のエール・ド・クールにみられます.またイギリスでは前記ダウランドの息子ロバート・ダウランドが1610年に出版した曲集「音楽の饗宴」には、カッチーニのモノディ’アマリリ麗し’が、リュートによる通奏低音つきで収められています.このことはモノディのスタイルについてイタリアからの影響をうかがわせるものです.モンテヴェルディのマドリガーレ集においても、カメラータのこうした音楽における革新の影響が見られ、徐々に多声音楽から独唱重視・和声的な書法に移行していきました.彼がマントヴァにくる以前に既に2冊のマドリガーレ集が出版されましたが(1587;1590)、その後第3集が1592年、第4集が1603年、第5集が1605年に出版されています.第5集ではその序文において保守陣営からの非難に対し反論を試み、「言葉こそ音楽の主人たるべき」という新しい音楽の理念(第2の作法)を宣言したという点で、5集はモンテヴェルディの創作活動を画するものでした.いつの時代にもあることですが、モンテヴェルディのこうしたいきかたには、保守的な音楽家から激しく攻撃されました.教会参事会員のアルトゥジは、「これらは・・・耳を楽しませてくれるどころか、痛めつけるのである」とモンテヴェルディを非難しました.なるほど通奏低音声部を置くなど、モノディ様式の影響に加え、予備のない不協和音、大胆な和声進行の使用は、明らかに伝統的な多声音楽の書法を離れ、それと対極に位置するものといえます.この2年後には合唱と独唱、そして種々の楽器をを巧みに使い、劇的な表現に満ちた最初期のオペラの名作「オルフェオ」が初演されるなど、この時期のモンテヴェルディはフィレンツェのカメラータの理念を受け継ぎながら、急速に新時代の音楽に衣更えをしていたのです.
4.モンテヴェルディその後
モンテヴェルディは1610年に「聖母マリアの夕べの祈り」を出版(この作品についての詳細はここでは触れません).1612年ヴィンチェンツィオ公が世を去り、息子フランチェスコが当主となると、意見の食い違いから宮廷を解雇されてしまいました.しかし翌1613年にはヴェネツィアのサン・マルコ大聖堂の楽長に就任.生涯その地位に留まります.ヴェネツィアに移って暫くの間は教会音楽と各地の宮廷の要請に応じて作品を書いたモンテヴェルディですが、1637年に歴史上初めてのオペラ劇場が開かれると、歌劇場のためにも作品を書くようになりました.これらの作品すべてが現存しているわけではないことは、まったくもって残念なことといわねばなりません.しかしそれでも「聖母マリア・・・」を始めとする宗教作品群、9巻のマドリガーレ集、そして現存する三つのオペラ、「オルフェオ」、「オデュッセウスの帰郷」、「ポッペアの戴冠」といった作品は、それが生まれて400年近く経た今も、演奏者にも聴き手にも等しく新鮮でスリリングな興奮をかきたてるという、モンテヴェルディの音楽固有の生命力の強さ私達につたえてくれます.
5.「聖母マリアの夕べの祈り」の成立事情
モンテヴェルディが「聖母マリアの夕べの祈り」を出版したのは1610年のことでした。しかしその際「聖母マリア・・・」単独で出版されたわけではありません。フランドルの音楽家、ニコラ・ゴンベールのモテット「その時にIn illo tempore」に基づく六声のミサ曲と一緒にひとつの曲集として刊行されたのでした。興味深いことはこれら二つの作品の音楽的スタイルがまったく異なるものであることです。つまり「聖母マリア・・・」の方は、前回記したように「第2の作法」による声楽曲、器楽と声楽とによるコンチェルト、さらには二重合唱などいわば時代の先端を行くスタイルを取り込んで書かれているのに対し、ミサ「その時に」は伝統的な無伴奏合唱のスタイルで書かれているのです。なぜモンテヴェルディはこのようにスタイルの異なる作品をあえて一緒に出版したのでしょうか。というよりすでに1605年に新たな作曲法を宣言した彼が、何故に古い作曲法に立ち戻ったのでしょうか。
実はモンテヴェルディにはこの時期二つの悩みがありました。ひとつはゴンザーガ家での将来への不安です。すでに記したように、彼の不安は的中し、モンテヴェルディは故郷クレモナに帰ることになるわけですが・・・。その時点ではヴェネツィアの聖マルコ大聖堂の楽長職は空いてませんでした。当時の同大聖堂楽長、マルティネンゴが亡くなったのは1613年7月10日。モンテヴェルディがヴェネツィアに呼ばれたのは同年の8月19日のことだったのです。つまり彼はゴンザーガ家の次の仕事を見つける必要に迫られていたのです。もう一つの悩みとは自分の息子のことです。長男のために教皇から神学生として奨学金を受けられるようにしてやりたいという親心があったのです(子を思う親の気持ちには、今も昔も、また洋の東西を問わず変わりはないようです)。以上の二つの悩みを解決する方法はないものか。恐らくモンテヴェルディはそう思いをめぐらしたに違いありません。そこで考えられることは当時の聖・俗世界の最高権威者、すなわちローマ教皇の歓心をを買うことでした。そうすることでモンテヴェルディの悩みは全て解消する。すでにマドリガーレやオペラの分野で揺るぎない評価を得ていた彼が、教会音楽の分野に自己の持てる力を開示すべく、力を注いだのが1610年の曲集だったのです。そうであればこそモンテヴェルディがタイプの異なる作品を一つの曲集として出版したことの理由も説明がつきます。
16世紀のトレント公会議以降とりわけ、パレストリーナに代表されるような伝統にそった教会音楽が好まれたローマ、ことに教皇に向けては六声のア・カペラ(無伴奏)様式のミサ曲を、そして最新の音楽語法に精通していることや劇的表現に優れていることの誇示のために「聖母マリア・・・」を用意したと考えるとモンテヴェルディの意図は極めて明らかなものとなります。もちろん曲集のタイトルページには時の教皇パウルス五世への献呈が記されています。しかし結果は完敗で、息子への奨学金は認められず、モンテヴェルディの音楽の腕をかって職を申し出てくれる貴族もいませんでした。しかしこのことが結果的にはヴェネツィアでの仕事に出会う機会を作ることになったわけですから、人生何が幸いするかわかりません。
6.晩課について
ところでこの作品のタイトルともなっている「夕べの祈りVespers」(旧称「晩課 」)は、ローマ・カトリックで定められている典礼の一つで、ミサとならんで重要な聖務日課 Officiumに含まれるものです。その原形は6世紀ごろまでに標準化され以下のような構成を持っていました。
ハ
大時課 |
小時課 |
実施時間 |
朝課 Matutinumハ |
夜中とその終わりハ |
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賛課 Laudesハ |
夜明ハ |
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第1時課 Primaハ |
午前6時ごろハ |
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第3時課 Tertiaハ |
午前9時ごろハ |
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第6時課 Sextaハ |
正午ハ |
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第9時課 Nonaハ |
午後3時ごろハ |
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晩課 Vesperaeハ |
午後6時ごろハ |
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終課 Completoriumハ |
日没後ハ |
こうしてみると聖務日課は仏教でいうお勤めのようなものであることが理解できますが、それにしても修道士もなかなか忙しそうですね。それはともかくこれらの典礼儀式において重要視されたのは他ならぬ音楽そのものでした。その理由は中世において音楽こそは人間と神をつなぐきずなであり、神のわざを説明しうる道具の一つと考えられていたからに他なりません。音楽的には朝課、賛課そして晩課が重要なものでしたが、晩課に含まれる詩篇およびカンティクム「マニフィカト」に、多声唱法が許されていたため、特に晩課に重きがおかれるようになり、音楽的にも晩課が充実したものとなっていったのです。したがってモンテヴェルディの「夕べの祈り」も当然晩課に対応した構成を持っていることになります。次に晩課の一般的な構成とモンテヴェルディの「夕べの祈り」の構成を比較してみましょう。
一般的な晩課の構成 |
モンテヴェルディの「夕べの祈り」の構成1610年出版譜ハ |
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開祭ハ |
序詞 唱句-応唱-小栄唱ハ |
第1曲 唱句-応唱-小栄唱ハ |
主 部 |
アンティフォナ-第1詩篇 -アンティフォナ
アンティフォナ-第2詩篇 -アンティフォナ
アンティフォナ-第3詩篇 -アンティフォナ
アンティフォナ-第4詩篇-アンティフォナ
アンティフォナ-第5詩篇 -アンティフォナ
聖書朗読-小応唱 賛歌/唱句-応唱ハ |
第2曲 詩篇109 第3曲 「私は黒い」(雅歌) 第4曲 詩篇112 第5曲 「麗しきかな わが愛しきもの」 第6曲 詩篇121 第7曲 「二人のセラピムが」 第8曲 詩篇126 第9曲 「天よわが言葉を聞きいれたまえ」ハ 第10曲 詩篇147 第11曲 「聖母マリアよ われら・・・」にもとづくソナタハ 第12曲 賛歌ハ |
閉 祭 |
アンティフォナ-マニフィカト -アンティフォナ 共同祈願 主の祈りハ 結びの祈願 |
第13曲 マニフィカト1/第14曲 マニフィカト2ハ ハ |
このようにモンテヴェルディの「夕べの祈り」は、「晩課=夕べの祈り」の歌われる部分にほぼ対応していることがわかります。ただし「夕べの祈り」では詩篇の前後で歌われるアンティフォナ(短い単旋律聖歌)のかわりに通奏低音つき声楽曲を置き、5つめの詩篇の後には「聖母マリアよ われらのために祈りたまえ」にもとづくソナタを置いていること。さらにマニフィカトが2つ用意されていることが定式と異なっています。これらの問題点については後程触れるとして、ここではまず1610年の出版譜に収められている曲について簡単に説明をしたいと思います。
7.各曲の解説
以下に各曲の編成を示します:
第1曲 声楽6声+器楽6声
第2曲 詩篇109 声楽6声+器楽6声
第3曲 「私は黒い」テノール独唱+通奏低音
第4曲 詩篇112 8声の二重合唱+通奏低音
第5曲 「麗しきかな わが愛しきもの」ソプラノ二重唱+通奏低音
第6曲 詩篇121 声楽6声+通奏低音
第7曲 「二人のセラピムが」テノール、バス3重唱+通奏低音
第8曲 詩篇126 10声の二重合唱+通奏低音
第9曲 「天よ わが言葉を聞きいれたまえ」テノール2声+通奏低音~6声合唱+通奏低音
第10曲 詩篇147 7声合唱+通奏低音
第11曲 「聖母マリアよ われらのために祈りたまえ」にもとづくソナタ 器楽8声+声楽1声
第12曲 賛歌 8声の二重合唱+通奏低音~4声合唱+通奏低音-5声のリトルネッロ~声楽1声+通奏低音- 5声のリトルネッロ~8声の二重合唱+通奏低音
第13曲 マニフィカト� 声楽7声+器楽6声
第14曲 マニフィカト� 声楽6声+通奏低音
一見して理解できることは各曲の編成が極めて変化に富んでいることです。最小独唱と通奏低音(17世紀初頭から18世紀半ばまで行われた一種の伴奏法。低音楽器が音楽全体の流れを把握しながらバス声部を演奏する)から、もっとも大きな編成では声楽7声と器楽6声までと幅があります。作曲書法の上から見ても、ルネサンススタイルのポリフォニーと第2作法のスタイルであるモノディ、通模倣と和弦的スタイルと変化に富んでいます。モンテヴェルディが第2作法において言葉の表出を意識していたことは既に述べましたが、1638年に出版された彼のマドリガーレ集第8巻の序文で、彼はさらに3つの様式を区別しています。すなわち興奮様式 stile concitato、柔和様式 stile molle、穏和様式 stile temperatoの3つです。実際この作品のなかには17世紀初頭の主たる音楽語法がすべて取り込まれているといっても過言ではありません。もとよりこうした様式の違いを意識していたモンテヴェルディであればこそ、劇的表現の可能性を汲み尽くそうという彼の意図がはっきりとうかがえるといえます(以下括弧内のC,Tなどは声楽パートのイニシャル)。
第1曲:聖務日課共通の序詞(先唱者によって歌われる唱句versiculusに合唱が応える。テキストは詩篇69第1節)で始まり、その後に小栄唱「願わくは父と子と聖霊に栄えあれ・・・」が声楽6声と器楽6声歌によって壮麗に歌われる。
第2曲:詩篇109から取られたテキストは聖母マリア共通の祝日の晩課で歌われるアンティフォナ。編成は声楽6声と通奏低音。3回のリトルネッロ(周期的に反復される器楽合奏の楽段。以下Rと略記)を挟んで、編成は6声-R-3声(CSB)-6声-R-3声(TQB)-6声-R-6声-1声(T)-6声と変化。2拍子と3拍子の交代も新鮮。曲尾の小栄唱は各詩篇でくり返し歌われる。
ハ
第3曲:テキストは旧約聖書の雅歌から取られており(第1章と第2章)、聖母マリア共通の祝日の晩課で歌われる。テノール独唱によるモノディのスタイルをとるが、モンテヴェルディによって記された歌唱声部の装飾的な動きは、言葉が音楽の主人たる第2の作法の独壇場。
第4曲:詩篇112のテキストによる。声楽8部と通奏低音。原形と反行形が同時にあらわれる模倣様式による冒頭から多彩な書法が展開されるが、そのなかに詩篇唱の旋律が常に見え隠れする。
ハ
第5曲:コンチェルト。テキストはやはり雅歌からとられており、聖母マリアの被昇天の祝日(8月15日)のもの。ソプラノ二重唱と通奏低音の編成で、やはり言葉の情緒を重視した第2の作法による。
ハ
第6曲:詩篇121に基づくテキスト。律動的な通奏低音に乗ってテノールの独唱で始まるこの曲は、開始まもなくトゥッティ(6声)となり以後次のような経過をたどる:二重唱(TQ)-二重唱(CS)-6声-3重唱(CSB)・・・6声。ここでもモンテヴェルディのテキストの内容による、独唱と重唱、通模倣と等リズムによるトゥッティ、シラビックな曲付けとメリスマ的曲付けの使い分けが際立っている。
ハ
第7曲:旧約のイザヤ書および新約のヨハネの第1の手紙に基づくテキストは三位一体を賛美した内容で、聖母マリアの祝日では歌われない。編成はさらに一つ増え3声(テノール2とバス)となるが、ほぼ全編短い音価による装飾的な音形で書かれている。この音形カッチーニがその著書で「トリロ」として述べたもので、モンテヴェルディも「オルフェオ」の中で、多用し劇的な効果を上げることに成功している。
ハ
第8曲:テキストは詩篇126。この曲ではヴェネツィア流の二重合唱(5声+5声)のスタイルを通奏低音と一緒に用いている。初めと終わりはトゥッティ。中間部は二つのグループが交互に歌う構成となっている。定旋律はテノールに置かれている。
第9曲:テキストは作者不詳の聖母マリアをたたえた自由詩による。「テノール2人と通奏低音によって、エコーを伴う独唱で曲は開始する。このエコーの手法はモンテヴェルディが「オルフェオ」、冥界の場で用いていることを思い出させる。後半は声楽6部となるがエコーは保持。
第10曲:詩篇147 ここでも二重合唱の手法が取られており、定旋律を歌うテノールを中心に残りの6声がソプラノ、アルト、バスの3声のグループふたつに分かれ、立体的に音楽を構築していく。
ハ
第11曲:「聖母マリアよ われらのために祈りたまえ」にもとづくソナタ
ここでの「ソナタ」は、古典派以降のそれではなく、器楽曲を声楽曲と区別するために用いられた名称。しかし実際には器楽だけではなく、もととなる聖歌を置いた歌唱声部が歌われる。聖母マリアのリタニアからの一節が11回繰り返されるあいだに、多彩な音楽を展開する。
ハ
第12曲:賛歌 テキストは7節からなっており、間に4つのR(リトルネッロ)を挟み、トゥッティ-4声合唱�-R-4声合唱�-R-独唱-R-ソプラノ独唱-R-テノール独唱-トゥッティと展開する。旋律は同一ながら、テキストの進行に沿って編成が変わっていくあたりの、変化のつけ方は興味がつきないところ。
ハ
第13曲:マニフィカト� 声楽7声+器楽6声 第14曲:マニフィカト� 声楽6声+通奏低音
テキストは新約聖書のルカによる福音書第1章46節から55節から取られており、最後に小栄唱が置かれている。マニフィカト�は聖書からのテキストが10部、小栄唱が2部の合計12の部分に分かれている。マニフィカト�は同じく13の部分に分かれている。同じ曲種がふたつ用意されているのは、編成から考えて演奏の場所・準備できる演奏者の種類などからどちらかを選択できるようにとの配慮と考えられる。したがってモンテヴェルディはこの作品を出版するにあたり、フル編成の重厚長大版と声楽と通奏低音のみによるダイエット版を念頭において準備したと考えるべきであろう。ともあれこのマニフィカトがこの作品中、クライマックスに相当するものであることは明らかであるが、各部分に凝らされた作曲技法の多彩さも、この曲の位置に相応しいものといえる。
8.モンテヴェルディ「夕べの祈り」をめぐる諸問題
ハ
これまで4回にわたりモンテヴェルディの「夕べの祈り」について解説をおこなってきました。しかしそのなかでも少し触れたように現在なお未解決の問題をこの作品は抱えています。そのためこの作品を演奏しようとする場合、何等かの解決策あるいはよりよいと思われる選択をする必要に迫られることになります。今回は最終回になりますが、まとめの意味もかねて、古来演奏者を悩ましてきた「夕べの祈り」をめぐる諸問題についてうんちくを傾けたいと思います。なお以下の記述では1994年出版のジェローム・ロシュ編スコアおよび同序文を参考にしました。また文中ガーディナー旧のごとき表記は最後のページの資料集に対応した略号です。
�モンテヴェルディの「夕べの祈り」は単一の作品それとも宗教曲の集成?
はたしてモンテヴェルディの「夕べの祈り」が単一のまとまった作品として構想されたものなのか、そうでないのか、という問いは現在の我々には大変不思議に思えるかもしれません。なにしろ1610年当時には、れっきとした曲集の形で印刷されていたわけですから。しかしたとえばこの作品のタイトルに少し注意を払ってみると、妙な点がないわけではありません。曲集のタイトルは以下の通りです:
ハ
教会聖歌隊のための6声の、聖母マリアへのミサ、および多声のための晩課と、礼拝堂や王侯の広間での演奏に適するいくつかの宗教作品 SANCTISSIMAE VIRGINI MISSA SENIS VOCIBVS AD ECCLESIARVM CHOROS Ac Vespere pluribus decantandae CUM NONNVILLIS SACRIS CONCENTIBVS ad Sacella sive Principum Cubicula accommodata.
(邦訳はパリスカ著;バロックの音楽〔プレンティスホール音楽史シリーズ3〕、藤江好子・村井範子訳、東海大学出版による。
このなかで「6声の、聖母マリアへのミサ」は前にも述べたゴンベールのモテットであるとして、「晩課と、礼拝堂や王侯の広間での演奏に適するいくつかの宗教作品」とはどういうことでしょうか。また訳しようによっては「礼拝堂や王侯の広間での演奏に適する晩課といくつかの宗教作品」と解釈することもできます。さらに第3、5、7、9、11曲が通奏低音のパートブックの裏面にのみ記載されていることから、これらの曲は「番外」であると考えられることにもなります。前回触れた晩課の式次第を思い出すとここでいう「宗教作品」とはこの番外の曲に他ならないことが分かります。つまりモンテヴェルディは6声のミサ曲を除く作品をすべて晩課の典礼合致したものとして構想・作曲したのか、晩課を含む一般的な宗教作品のレパートリーを提供したのか、という問題につきあたるわけです。前者の立場をとったのは研究者レオ・シュラーデであり、後者の考えに与したのはハンス・レートリッヒでした。
�アンティフォナの扱い
レートリッヒの考えを受け継いだデニス・ステーヴンスはさらに徹底した方向を打ち出し、実際にくだんの5曲をなどを除き、さらに必要なアンティフォナを含んだ楽譜を出版しました。このいささか行き過ぎた(?)やりかたは、1966年に先の5曲も収め、またアンティフォナも収め、演奏者が選択できるような楽譜がヴォルターによって刊行されるにおよんで収まるべきところに収まりました。67年にはステファン・ボンタがこの5つの作品がアンティフォナの代用であることを提唱しました。この説によれば5つの作品のテキストが特定のマリアの祝日に一致していなくてもかまわず、逆にどのマリアの祝日にもその使用が可能となるわけです。以上の経緯からモンテヴェルディが晩課に必要なアンティフォナを1曲も指定していないことと5曲の宗教作品との関連については理解ができます。
実際に晩課の1610年出版譜の形を、曲目においても曲順においても尊重するいきかたをとっているのはシュナイト盤、ガーディナー旧・新、オットー盤。他方晩課の定型にそった演奏形態をめざし、アンティフォナを付加しているのはユルゲンス盤、フレーミヒ盤、アーノンクール盤、ピケット盤、ヤコプス、濱田芳道となります。さらにユルゲンス盤、ベルニウス盤、ピケット盤およびヤコプスには曲順の変更がみられます。
�ソナタの役割
ここでこれらの演奏にみるソナタの位置の変更について少し考えて見たいと思います。ユルゲンス盤とヤコプスではソナタと讃歌の順序を入れ替えており、ベルニウス盤とピケット盤ではソナタをマニフィカトの後、全体の最後にもってきています。ここで問題になるのはソナタの役割です。位置的には第5詩編曲の後にあるために、第5詩編のアンティフォナ代用とみることができます。先のボンタもそのように考えていました。しかしデイヴィド・ブレイズィーは1989年にモンテヴェルディの晩課のソナタの役割について研究し、内容的にも作曲技法的にもマニフィカトとの関係の深さを明らかにし、むしろマニフィカトのアンティフォナの代用ではないかとの結論を得ています。当然1610年の印刷譜の曲順が問題になります。ブレイズィーはその点についても「恐らくモンテヴェルディは、詩編の間に典礼外の曲を挿入する指示をつけて、原稿をばらばらのまま印刷屋に渡し・・・印刷屋は標準的な詩編の順序は心得ていた・・・アンティフォナの代替え曲は声部数の昇順に配置されたが、それは典礼の順序に従わない曲集では普通のやり方であった。したがってその曲順はモンテヴェルディが意図した演奏順序を必ずしも反映していない。・・・印刷屋は単に典礼-非典礼のパターンをくり返し、このソナタに行き着いたにすぎない」と推測しています。ユルゲンス盤やヤコプスの配列はこの考えに近いものと言えます。しかし他方でアーノンクールやガーディナーのように1610年の曲集の順序を尊重する立場もあるわけで、いずれも状況証拠による判断だけに、どちらとは決めかねることではあります。
�その他
しかし以上でモンテヴェルディの晩課の問題点が尽くされたわけではありません。検討しきれなかった問題点を次に示します;
①どのような機会のために作曲されたか たとえばそもそもこの晩課は、どのような機会に演奏するために書かれたのか、ということも分かっていません。これは音楽家が自立している現在とは異なり、作曲する以上はなにか具体的な目的があって作曲するのが当時の音楽家の普通のありかただったからです。
②合唱の編成 さらに合唱は各パート複数なのか一人なのかも明らかではありません。この点少なくともパロット盤とピケット盤、そしてスコラーズ盤は合唱各パート一人方式をとっています。
③オブリガート楽器の扱い またパート譜が書き起こされていない器楽を合唱パートにどの程度重複させるべきかも定説はありません(実際にオブリガート楽器は第1、2、11、12、13曲だけで必要とされます)。
④移調の問題 演奏習慣に関連していえば、第5詩編曲と2つのマニフィカトが高い音部記号で記譜されていることから、こうした楽譜は演奏に際し通常(4度)低く移調されたと考えられていることです。この問題の起源は古く、1950年代にさかのぼります。この理論の実践への応用に先鞭をつけたのが、パロットで、その後ヘレヴェッヘ、ピケットと続きます。またこの方法で問題になる、「4度下に移調すると、はなやかさにかける」と点は、基準ピッチを高ることで回避されています(濱田芳道)。またスコラーズ盤は詩編曲のみ2度低く演奏しています。
以上そろそろ紙面、時間そして体力も尽きてきたので、晩課をめぐる迷宮の旅はここらへんでピリオドを打ちたいと思います。それにしても印象深かったことは、しばしば「学究的」と称されるガーディナーが、実は極めて主観的な態度で実践への道を切り開いていることです。そのあたりはグレゴリオ聖歌アンティフォーナをモテットの代わりに使うべきだという説に対し、「私はゴシック時代の幽霊をよみがえらせるような、こうしたやり方はとらない。・・・美的な根拠から、こうしたやり方に反駁することができるだろう」と述べていることからも明らかです。この種の問題の解決には、具体的証拠の発見が決め手になることはいうまでもありませんが、しかしより「真実らしい」姿に近づこうという努力が無駄なわけではありません。なぜならそうすることによって、より強い確信をもって演奏に臨むことができるからです.
モンテヴェルディ:聖母マリアの夕べの祈り資料集
A.演奏スタイル比較表
アンティフォナの付加ハ |
ソナタの位置ハ |
移調ハ |
備考ハ |
|
シュナイト盤ハ |
なしハ |
オリジナルハ |
なしハ |
|
ガーディナー旧ハ |
なしハ |
オリジナルハ |
なしハ |
|
.ユルゲンス盤ハ |
ありハ |
讃歌と入れ替えハ |
なしハ |
|
セガーラ盤ハ |
なしハ |
オリジナルハ |
なしハ |
|
フレーミヒ盤ハ |
ありハ |
オリジナルハ |
なしハ |
|
パロット盤ハ |
ありハ |
オリジナルハ |
4度低く移調ハ |
|
.ヘレヴェッヘ盤ハ |
ありハ |
オリジナルハ |
4度低く移調ハ |
|
アーノンクール盤ハ |
ありハ |
オリジナルハ |
なしハ |
|
ベルニウス盤ハ |
ありハ |
最後ハ |
なしハ |
|
ピケット盤ハ |
ありハ |
最後ハ |
4度低く移調ハ |
|
ガーディナー新ハ |
なしハ |
オリジナルハ |
なしハ |
|
スコラーズ盤ハ |
なしハ |
オリジナルハ |
2度低く移調ハ |
詩編曲のみハ |
オットー盤ハ |
なしハ |
オリジナルハ |
なしハ |
|
鈴木雅明ハ |
なしハ |
オリジナルハ |
なしハ |
|
濱田芳道ハ |
ありハ |
オリジナルハ |
4度低く移調ハ |
ただしa1=466ハ |
ヤコプス ハ |
ありハ |
讃歌と入れ替えハ |
なしハ |
B. AV資料
a. LP,CD
1.シュナイト盤 ハンス=マルティン・シュナイト/レーゲンスブルク大聖堂聖歌隊
録音1974/5年 ポリドール 【CD番号】DCI 81373/4
2.ガーディナー旧 ガーディナー/モンテヴェルディ管弦楽団他
録音1974年1月 \2,900 ポリドール/ロンドン 【CD番号】POCL-3658/9 再発
3.ユルゲンス盤 ユルゲン・ユルゲンス
発売1976年キングレコード【LP番号】SLA6165/6
4.セガーラ盤 セガーラ神父/コレギウム・アウレウム合奏団 モンセラート修道院聖歌隊 プロ・カンツィオーネ・アンティカ
発売1978年 テイチク/独ハルモニア・ムンディ【LP番号】 ULS-3205~6-H(LP)
5.フレーミヒ盤 フレーミヒ/ドレスデン聖十字架合唱団
録音1981-82年 徳間ジャパン/ドイツ・シャルプラッテン 【CD番号】27TC-216/7
6.パロット盤 パロット/タヴァナー・コンソート& プレイヤーズ他(D)
録音1983/4年 EMI CDS 7 47078 8(国内盤 東芝EMI/エンジェル 【CD番号】CC33-3367/8 生産中止)
7.ヘレヴェッヘ盤 ヘレヴェッヘ/シャペル・ロワイヤル&cho. メロン,ロランス(S)他
録音1986年 /仏ハルモニア・ムンディ( 91.10.21 \6,000 キング・インターナショナル【CD番号】KKCC-59/60)
8.アーノンクール盤 アーノンクール/ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス他 キング/テルデック
録音1986年7月 【CD番号】K33Y-10173/4 生産中止1995年
9.ベルニウス盤 ベルニウス/ムジカ・フィアタ・ケルン シュトゥットガルト室内cho.ツァネッティ (S)
他 録音1989年1月 /独ハルモニア・ムンディ RD77 760 ( BMGビクター【CD番号】B25D-36029/30 生産中止)
10.ピケット盤 ピケット/ニュー・ロンドン・コンソート ボット(S)キング(T)他
録音1989年5月 ポリドール/オワゾリール 【CD番号】POCL-1091/2
11a.ガーディナー新 ガーディナー/イングリッシュ・バロック・ソロイスツ モンテヴェルディcho.他
録音1989.5/7月 ポリドール/アルヒーフ 【CD番号】POCA-1008/9
11b.ガーディナーLD 上記のLD盤;20分ほどガーディナーによる解説入り
12.スコラーズ盤 スコラーズ・バロック・アンサンブル
録音1993年9月 【CD番号】NAXOS 8.550662-3
13.オットー盤 ラルフ・オットー/フランクフルト合唱団 「IL BASSO」器楽合奏団
録音1993年10月 【CD番号】CAPRICCIO 10 516
b.コンサートライヴなど
b-1.鈴木雅明 鈴木雅明指揮 コレギウム・ジャパン 1993年12月5日 FM放送。
b-2.濱田芳道 濱田芳道指揮 ラ・ヴォーチェ・オルフィカ他 1994年6月6日 プログラムのみ。
b-3.ヤコプス ヤコプス指揮 コンチェルト・ヴォカーレ他 1994年7月6日テレビ放送。
c.筆者未入手のディスク
c-1. コルボ/古楽器Ens. ローザンヌ声楽Ens.他 85.06.15 \7,000 BMGビクター/エラート 【CD番号】RECD-1021/2 生産中止
c-2. コッホ/ベルリンco ベルリン放送独唱者連盟 クロチンスキ(S)他
89.04.21 \4,696 日本コロムビア/デンオン 【CD番号】CO-3232/3 生産中止
◇この原稿は東京バロック合唱団創立10周年記念演奏会(1995年10月13日金 東京カテドラル聖マリア大聖堂)の準備ために,同合唱団の会報に連載したものです.