日本音楽理論研究会

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若松啓子ピアノリサイタル(2000年6月 30日、大分県総合文化センター音の泉ホール)プログラムより

プログラム最初はドイツ・バロック音楽を代表するヨハン・セバスティアン・バッハ(1685~1750)の鍵盤楽器のための作品。鍵盤楽器、すなわちオルガンやチェンバロのために数多くの作品が残されていることは、生前なによりも鍵盤楽器の名手として知られていたバッハにしてみればこそといえよう。「パルティータ」(イタリア語)という名称は元来変奏曲を指していたが、17世紀以降ドイツでは舞踏組曲を指すようになった。バッハの場合、他に3曲の無伴奏ヴァイオリン・パルティータなどに実例が見られるが、オルガン作品では本来の意味での使用も見られる。本日演奏されるパルティータ第1番は1726年、バッハ41歳の年に作曲。1731年5曲追加し、全6曲を「クラヴィア練習曲第1部」として出版した(彼はこのシリーズを第4部まで完成することになる)。同曲集には舞踏組曲が6曲収められており、調性が1番から6番に向かって変ロ長調-ハ短調-イ短調-ニ長調-ト長調-ホ短調と、上下に2度ずつ拡大していく構成は、バッハが常々創作にあたり全体の構築性をも重視したことの現れであろう。曲は素朴な律動感のなかにも対位法の綾が織り込まれた前奏曲に続き、アルマンド、コレンテ、サラバンド、メヌエット1・2、そしてジーガで終わる。様式的にはイタリア様式が支配的であり(コレンテとジーガは名称自体がイタリア語である)、短い音価による急速なパッセージが全体を彩るが、前奏曲とサラバンドでは、細分化された装飾的な旋律が美しい。ぼくとつとした音形のメヌエットの後、急速なアルペッジョに交錯する跳躍旋律のジーガで組曲を締めくくる。「クラヴィア練習曲第1部」の完成時、バッハはライプツィッヒで教会の音楽監督の仕事をしていたが、パルティータ第1番はケーテン公の皇太子に献呈されている。これはその下で「一生を終えるつもり」であったほどに音楽に理解のあった、同公との深いきづなの現れにほかならない。事実バッハは領主ケーテン公レオポルトがなくなった際、葬送の音楽を献呈しているのである(「子らよ嘆け」BWV244a)。

 バッハに続いて演奏されるのはルートヴィッヒ・ファン・ベートーヴェン(1770~1827)のピアノ・ソナタである。ベートーヴェンは生涯に渡ってピアノ・ソナタを作曲し続けたが,ここで取り上げられるものは彼の晩年に当たる時期に書かれた3曲のピアノ・ソナタの最初に当たるもので1820年に作曲されている。この時期ベートーヴェンはピアノ・ソナタ29番作品106を皮切りに、いま一度新たな世界への飛躍を見せることになる。ピアノ曲ではデアベッリ変奏曲を作曲。他方壮大な宗教作品「荘厳ミサ」、最後の交響曲、第9番の完成。弦楽四重奏曲第12番以降などを完成している。これらベートーヴェン晩年の作品に共通する特徴として変奏曲および対位法的技法特にフーガの重用を挙げることができる。この作品109のソナタでも第1楽章はソナタのミニチュアと呼んでも良いような短いもの。続けて演奏される第2楽章はスケルツォの性格を持つ急速な楽章だが、構成は堅固であり、中間部にはカノンの技法もみられる。これら両楽章合わせても終楽章より短いのだが、例えばモーツァルトのピアノ・ソナタでは終楽章が軽く短いことが多いことを思えば、このソナタのの特異性が理解されるだろう。そして最後の楽章は「十分に歌うように、そして表情豊かに」と付記された叙情的な、しかし確かな足どりの低音に支えられた主題の後6つの変奏が続き、最後にもう一度主題が再現して曲は終わる。ベートーヴェンの同年に、哲学者ヘーゲルがいて、19の年にフランス革命が起こり、ナポレオンの登場にも立ち会ってきた。社会の激動期のただ中を生きてきたベートーヴェンの、年を重ねても衰えることのなかった創作意欲が獲得したものは,従来の形式を越えた自由な表現であった。交響曲第9番や荘厳ミサがマクロの世界とすれば、このソナタは晩年のベートーヴェンが細密画として描いたミクロの世界と言えるだろう。

 さてプログラム3番めは日本の作曲家、矢代秋雄の作品である。矢代は1929年生まれの日本の作曲家。76年46歳で急逝するまでに残された作品はわずかに8曲を数えるのみだが、このピアノ・ソナタを含む主要な4作品は58~61年の間に集中して書かれている。また純粋な創作意外にもさまざまな機会音楽を書いており、折りに触れ書き留められた音楽論(『オルフェオの死』音楽之友社)は今なお読者を魅了してやまない。その意味で彼の46年の生涯は「貴重な音が育まれていない時間は、一刻もなかった」にちがいない。さてこのピアノ・ソナタは当初倉敷の大原美術館の委嘱によって1960年作曲、同館創立30周年記念音楽会で初演され、翌年2・3楽章が改訂され第2会東京現代音楽祭で初演された。

 作品についてはなによりもまず作曲者自身の言葉を記そう;

  曲は三楽章に分かれ、各楽章は循環主題によって緊密な関連と発展が計られている。
    
第一楽章は極めて特異なソナタ形式によっている。ここで私は、私なりの方法で、
    
ソナタ形式のエッセンスだけを凝縮させてみたつもりである…

 第二楽章はピアニスティックなトッカータ。

 第三楽章は、主題とその自由な変奏により成る。この主題は、いうまでもなく、
    
第一楽章の第二主題によっている。

(この後矢代はこの曲を書くにあたって、彼自身がピアノ・ソナタの理想像とするベートーヴェンのピアノ・ソナタ作品109から精神的影響を多く受けたことを述べているが、本日のプログラムも、この点を踏まえたものであることはいうまでもない)

 第1楽章は12音列による旋律が広い音域に展開される第1主題と、オスティナートを伴う第2主題によって曲が展開していくが。第2楽章は急速な和音の連打による短い序奏の後(これは後でこの楽章の主要モチーフに成長する)第1楽章第1主題を素材とした点描的な音形が奏される。所々現れる和音の3連打はいずれこの楽章の主要モチーフとなるもの。中間部では跳躍進行から一転半音階進行に変わる。その後再び点描的音形が再現し、強烈な和音の3連打によってこの楽章は終わる。第3楽章は作曲者自身が述べているように第1楽章の第2主題による主題が提示され、その後自由な変奏が行われる。開始してほどなく第1楽章第1主題が「十分に歌うように…」と指定され、全く性格を変え再現。終盤ではこの変奏曲の主題(第1楽章の第2主題)が対位法的に処理されクライマックスを形成。終結部で第1楽章第1主題が再度再現。音列の最後の4つの音を弱奏でオクターヴ高く奏して曲は終わる。全体と個々の構成のみならず、循環形式の手法をも導入している点も含め、ベートーヴェンに倣ったと考えられるのは作曲者自身の述べているとおりである。また音組織のベースに12音技法やメシアン発案のM.T.L(移調の限られた旋法)を用いている点は矢代が現代に生きた証しでもある(彼は1951~56年にパリに留学している)。そこには創造に至る異文化・異時代の出会いと触発が生き生きと見られるのである。

 プログラム最後を飾るのはショパン(1810~1849)である。フレデリク・フランソワ・ショパンはポーランドに生まれ、パリに39歳で病没するまで、創作のほとんどをピアノ独奏曲にあて、豊かな音楽性と構成感に裏打ちされた、ピアノの機能を十全にいかしたピアノ曲を多数残した。しばしば「ピアノの詩人」と言われる由縁でもある。今回演奏される曲は、ショパンが唯一「幻想曲 Fantasie」と名づけた作品で、1841年に完成している。「幻想曲」という曲種は古く16世紀にまで起源をたどることができるが、意味するところは「特定の形式にとらわれない器楽曲」と考えられる。この曲の場合もソナタのような定型に納まるのではなく、大胆な構想の下に曲が展開されていく。まず付点リズムが特徴的な行進曲の序奏で曲は開始する。それに続いて三連符を基調にした楽段が現れる。この楽段はさらに3つに分かれ、中間部では三連符の伴奏の上にいかにもショパン的な歌心のある旋律とリズミカルな喜ばしい雰囲気の旋律が続けて奏される。この楽段は転調しながら3回現れるので、実質的にこの曲の主部をなすものと考えてよいだろう。1回めと3回目はこのあと反復進行による経過句を経て、コラール(合唱)風ながら四分音符の刻みによる、決然とした行進曲風の楽段へ続く。2回目だけは3/4拍子でゆっくりとしたテンポ(Lento)のコラールが続く。最後はこの3/4のコラールを挟み、急速な3連符の楽段により曲は終結する。

 一説によるとこの曲は、ショパンが当時親交のあった女性ジョルジュ・サンドとの喧嘩と仲直りの情景を描いたものだといわれている。かのリストがそういったというのであるが、なるほどこの曲の展開は意外性があり、そしてまた音楽の存在理由を音楽外に求める態度は、きわめてロマン的な発想である。しかしそれだけで独創的な名作が生まれるわけでは、もちろんない。ショパン自身は音楽に対しては、純粋な態度で向かい合っていたことが知られており、ましてやリストが属していた「新ドイツ派」の趣旨に賛同していたわけでもないので、こうした説は俗説の域を出ない。逆に「形式や構成に対して天才的な感覚を持っていた」ショパンならではの作品といえるだろう。

文 大分県立芸術文化短期大学助教授 小川伊作

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