日本音楽理論研究会

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2001年10月8日(月)大分県立芸術文化短期大学創立40周年記念

第37回合同定期演奏会(大分県総合文化センター グランシアタ)プログラムより
ルートヴィヒ・ファン・ベートーヴェンは1770年、ドイツ中西部の都市ボンに生まれた。時代はかつての華やかな宮廷文化から、市民社会のそれへと移行しつつあった。啓蒙思想、アメリカ独立(1776)、産業革命(1760-1830)、カント(1724-1804)の哲学、ゲ-テ(1749-1832)の文学、フランス革命(1789)、そしてナポレオン(1769-1821)の登場。旧政治体制の崩壊と、市民社会の成立と平行して、文化構造の変革期に生きたベートーヴェンは彼自身の芸術もまた、挑戦と革新に満ちたものであった。第九を通して彼が訴えた考え方、「人類はみな兄弟となる」は、なによりも啓蒙主義の基調をなす人道主義的考えであったのだ。1789年ベートーヴェンはボン大学の聴講生となるが、これも啓蒙君主を任じるボンの選挙候の政策あってのことだった。1792年ウィーンに出てから、本格的な活動を始めるが、ベートーヴェンは彼以前の音楽家のように、特定の教会、貴族、宮廷に召し抱えられることなく、自立した音楽家として一生を過ごした。しかし「気難しく人嫌い」といった今日の通説に反し、貴族などの友人知人は多かった。最初ベルリンでの初演を考えていたベートーヴェンに対しウィーン上演のため助力・嘆願を申し出たのは30名近くの貴族であった。1827年、56歳の生涯を閉じたベートーヴェンの葬儀には、有名無名の音楽家(シューベルトも参列していた)すべてと、なおも2万人におよぶ群衆を集め、ウイーン始まって以来の壮大なものであったという。その生涯に主要作品だけで交響曲9曲、ピアノ・ソナタ32曲、ピアノ協奏曲5曲、ヴァイオリン協奏曲1曲、弦楽四重奏曲16曲などを残したが、いずれのジャンルにおいても、常に超越的態度が感じられ、今日でも彼の音楽は、聴く人に説得力をもって語りかけてくる。とりわけ本日上演される、彼の最後の交響曲となった第九番は、彼の創作の集大成ともいうべきもの。交響曲第5番で明確に表明された「苦難を通り抜けて歓喜へ至る」という彼の人生観が、この第九番においてはより高いレベルで凝縮・結晶化されており、文字通り音楽史上の傑作と呼ぶにふさわしい作品である。

■「歓喜に寄せる頌歌」との出会い

 先述のように1789年5月、19才のベートーヴェンはボン大学の聴講生となる.同年7月14日フランス革命が勃発したとき,教授シュナイダーによる革命思想についての熱のこもった講義がボン大学の学生達を感激させた。こうしてベートーヴェンは「自由・平等・博愛」というフランス革命の精神に共感を覚えていった。また1792年にはフィッシェニヒ(シラーの友人)によるシラーの講義を聴き,個人的な知遇も得ていた.フィッシェニヒがシラー夫人にあてた手紙(1793.1.26)のなかで「・・・彼はまたシラーの『歓喜』を,しかも全節を作曲しようとしています」と書き記している。ベートーヴェンが交響曲第1番を完成したのが1800年。すでに彼はそれ以前に後の第九交響曲の構想を抱いていたのだ。

 また第4楽章に現れる「歓喜の主題」の旋律は、もともとはフランスのオペレッタ(小規模な喜歌劇)などにみられたもの。ベートーヴェン自身の作品の中では、歌曲「相愛Gegenliebe」(1795)が最初の例である。つまりベートーヴェンはシラーの頌歌を知ったのと、ほぼ時を同じくして旋律にも出会っていたことになる。その後この旋律は、歌劇「フィデリオ」初稿(1804)、合唱幻想曲(1808)と受け継がれ、最後の作品へ結実していくのである。

 ■第九の聴き所

  ところでベートーヴェンはこの作品を書くに当たって、どのような工夫を、あるいは仕掛けをしたのだろうか。全四楽章という楽章構成は、当時の標準であり、この点では交響曲第六番の方が破格といえる(全五楽章)。しかし通常は緩徐楽章が置かれる第二楽章に速いスケルツォを置いた点が目を引く。さらに第三楽章は緩徐楽章であるが変奏曲形式を導入。この楽章の天国的な美しさは、たとえようもなく、間違いなくベートーヴェンの書いた音楽中最上のものに属することは間違いない。そして何といっても独創的なのは終楽章の第四楽章だ。いきなり不協和音が強奏で鳴り響く開始部に驚かされるが、その後はしばらく、低弦の叙唱が続き、その間に第一~三楽章の主題が回帰してくる。最後に「歓喜の主題」が優勢となり、美しいオーケストラの響きが歓喜の主題を歌い上げた後、再び不協和音の強奏。バスの独唱が始まる(この曲が現れるまで交響曲に声楽が入った例はなかった)。ここでは音楽を通しての論理的な構築性が、見事な効果を上げる。前三楽章の主題旋律が第四楽章冒頭に再現され、それらを越えるものとして「歓喜の主題」が提示されるのだ。しかもこの楽章ではテンポ、拍子もめまぐるしく変わり、書法も叙唱、合唱、重唱、三重唱、四重唱、フーガと多彩である。テキストも単純に付曲されているわけではなく、自由に反復、組み替えが行われており、ベートーヴェンがどの言葉に関心を持ち、なにを訴えたかったが読みとれる。おもしろいのは、テノール独唱の部分で、楽譜に「行進曲風に」と記されている。実際に大太鼓、シンバル、トライアングルという打楽器が加わるが、これらの楽器は元来軍楽隊、それもトルコのそれに顕著な楽器であった(ベートーヴェンのみならずモーツアルトもトルコマーチを作曲しているが、これらは当時のヨーロッパにおけるトルコブームをよく表している)。つまりはベートーヴェンは自己の最高傑作の中に、異国的な行進曲を忍び込ませたことになるが、それがどれほど芸術的な高みまで昇華されているかは、一聴しただけで明らかとなる。また全楽章をを通じていえることは、対位法の見事さである。耳を澄ませば、美しく細やかな配慮の行き届いた対旋律をいたるところで聴き取ることができるだろう。これはベートーヴェンが幼少時、バッハの平均律を教材に音楽を学んだことと無縁ではない。

 第九交響曲は、したがって名演と評される録音も数多い。古くはフルトヴェンクラー指揮のバイロイトの名演が忘れられない。これは第二次世界大戦終結後の、平和が取り戻された喜びが率直に演奏に表れている演奏といえる。そしてもうひとつ忘れ得られない第九の演奏は1989年12月25日、バーンスタインの指揮でベルリンで行われた演奏会だ。これはベルリンの壁崩壊という歴史的事件を記念して行われたもので、その様子は全世界に放映された。バーンスタインはインタビューの中で歌詞を「歓び」を「自由」に変更したことに触れ、これはベートーヴェンの本来の考えに沿うものだと述べている。「自由」を尊ぶあたり、いかにもアメリカの音楽家らしいが、それはベートーヴェンが生涯抱き続けた理想にまっすぐ続いている。日本での第九初演は大正13年(1924)11月29日。以来無数の第九の演奏会がわが国で催された。今日の第九の演奏が、「心から心へ」伝わり、この新しい世紀の「苦難を通り抜けて歓喜へ至る」ことを予示するものであることを願ってやまない。

 ■「プロメテウスの創造物」序曲、Op.43

  原曲はベートーヴェンが残した2曲のバレー音楽の一つ。序曲および16曲の舞曲が組になっているが、管弦楽として刊行されたのは序曲のみで、今日でも単独で演奏されるのが通例である。初演は1801年3月28日ウイーン。ベートーヴェン31歳の年だが、同年交響曲第1番、初期のピアノ協奏曲を出版し、作曲家としての名声を高めつつあった頃。序曲は緩やかな序奏に導かれて、急速な主部に入る。ヴァイオリンの律動的な第1主題と、フルートによるシンコペーションが特徴的な第2主題によるソナタ形式で構成されている。

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