日本音楽理論研究会

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高見久美子ソプラノリサイタル~ 山田耕筰の世界~(1994.10.7、熊本、1995年 10月20日;大分市コンパルホール)解説原稿

演奏曲目

第一部

1.「童謡100曲集」より

1.すかんぽの花咲くころ(北原白秋)1925
2.青カエル(三木露風)1927
3.かえろかえろと(北原白秋)1925
4.烏の番 雀の番1926
5.あわて床屋(北原白秋)1927
6.砂山(北原白秋)1926
7.ペィチカ(北原白秋)1923
8.待ちぼうけ(北原白秋)1923

話し1

2.

1.のばら(三木露風)1917
2.中国地方の子守り歌(日本古謡)1928
3.すてたねぎ(野口雨情)1926
4.唄(三木露風)1916
5.十六夜月(寺下)1634

第二部

話し2

1.「澄月集」(1917)より 

1.やままたやま
2.つきをのする
3.ゆきまよい
4.ただすめる
5.なかなかに

話し3

2.北原白秋作品より

1.かやの木山1922
2.からたちの花1625
3.曼珠沙華1922(AIYANの歌 4)
4.鐘がなります1923
5.松下音頭1928

話し1

皆さんこんばんは。本日は高見久美子さんの山田耕作の夕べにご来場いただき誠にありがとうございます。通して聞いていただきました前半のプログラム。童謡百曲集。これは山田耕作30代後半から40代はじめの作品、1927~29年にかけて刊行されたものです。もちろん「童謡」と名付けられてはいても、子供が歌うには少し難解すぎる。いってみれば年を経たおとなが、幼いころをふりかえるような、あるいはおばあちゃんや、おじいちゃんがお孫さんをみつめる視線を感じます。次に歌われたのは、ただいまの童謡百曲集より10年ほど早い1916年から1934年ごろに作曲された作品。ここで選ばれました5曲は歌詞の由来も作曲時期もまちまちですが、逆に山田耕作の音楽の多面性を味わうことができたのではないかとおもいます。いずれも歌詞の内容の多彩さに呼応して、音楽的効果も変幻自在といった趣がありますが、しかしつねに言葉が生き生きと音楽の中で命を与えられている、そのような印象を私は受けました。

修道院に板三木露風が葉書に書いて送った詩に感動して作られたという「のばら」。日本の伝承曲を山田風にアレンジした中国地方の子守り歌。一風変わった雰囲気の「すてたねぎ」。次の三木露風の詩に作曲した「唄」はお聴きのとおり、ユーモラスな曲です。そしてなぜかワルツのリズムに乗って歌われる「十六夜月」。

 さて今年は山田耕作の没後30周年ということで、マスコミ、演奏会などで彼の作品が取り上げられることが多くなっています。

山田耕作から連想する事といったら何があるでしょう。・・・からたちの花をはじめとする数多くの愛唱歌の作者/映画「ここに泉あり」でのスキンヘッド/昭和55年にTBS系で放映された野口五郎主演の山田耕作物語「大いなる朝」/加山雄三のペンネーム団耕作など。そして山田耕作の名を知らなくても「からたちの花」、「この道」などは本当に我々の耳に馴染んだ曲ではないかとおもいます。滝蓮太郎らと並んで日本を代表する作曲家と称される彼は、いったいどのような人物であったのでしょうか。ここで彼の経歴を振り返って見ましょう。

 

山田耕作は1886(明治19年)6月9日東京に生まれ、1904年東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)入学。1908年同声楽科卒業。これは当時芸大にまだ作曲科がなかったためです。1910~13年ベルリン留学。1917年渡米。 自作の演奏会をカーネギーホールで開催。1965年(昭和40年)12月29日同没(79才)。

 幸いにして山田耕作は自伝を残しております。といってもベルリン留学時代までのものですから、彼の前半生にすぎないのですが。その自伝を読みますと、学生時代より彼はやんちゃな、かなり血の気の多い、そして早熟の才を示した人物であったようです。たとえばエピソードの一つとして学生時代、チェロのレッスンを受けていた時のことですが、進歩が遅いといって叱った教官に向かって、山田は正々堂々と反論し、校長室まで追いかけていった話し。また彼は声楽科に在籍していたのですが、元々は作曲を志しており、在学中より作曲を手掛けていました。しかし作曲していることが上級生に知られて、妨害を受けて以来、外国の名前、甚だしくはベートーヴェンのような楽聖の名をさえ借用して、作品を公にし、それにより自らの創作意欲を満たしていたことなどが記されています。

 もちろんこうしたことの背景にはたとえば義理の兄のガントレット、彼はイギリスから赴任した牧師であったのですが、音楽にも堪能でありました、彼から音楽の手ほどきを受け、また山田自身も義兄の音楽の蔵書を自分で研究したといった事情もあったわけです。

  ところで山田耕作自身はオーケストラ、オペラといった分野にもかなりの作品を書いているわけですが、歌曲となるとこれは彼が音楽に携わりはじめた若い時代から、晩年にいたるまで書きつづけられており、その意味で彼の作曲家としての成長なり変遷なりといったことは、彼の歌曲の中にかなりはっきりと見て取れると考えて差し支えないとおもいます。したがって今夜のリサイタルは奇しくも作曲家山田耕作の歩みにその歌曲を通じて触れる、といった趣向になったわけです。

 彼の作品ですが、ごくおおつかみにご紹介すれば舞台音楽42曲。器楽曲154曲。声楽曲688曲。その他編曲195曲。この創作意欲の旺盛さには目を見張るものがありますが、とくに最後歌曲の数の多さには、目を惹かれます。

 彼をこのように歌曲の作曲に駆り立てたものは何だったのでしょうか。それは彼の場合詩人北原白秋との出会いであったように思います。1922年には白秋と共同で「詩と音楽」という月刊誌を創刊しております。残念ながらこの企画は関東大震災により、1年間で中断してしまいましたが、山田が白秋の詩にことのほか思い入れが深かったことは、山田の歌曲のなかで白秋の詩によるものが多いこと。また白秋が晩年作詩に専念しようとしたとき、反対したのがほかならぬ山田であったというエピソードからもうかがわれます。実際山田の創作にとって白秋との出会いはかけがえの無いものであったことは間違いなく、彼との出会いによって山田の歌曲はいっそうの飛躍を遂げることとなります。先の「詩と音楽」と同じ白秋の弟の出版社アルスより刊行された音楽大講座の第4巻には山田耕作による「歌詞の取り扱いかた」という章が収められています。ここで山田は言葉のアクセントと旋律の関係について持論を展開していますが、ユニークなのはその自説の証明方法で、なんと彼の先輩にあたる滝簾太郎の名作、「荒城の月」を例にあげ、言葉のアクセントを吟味した実例として山田自身が旋律に修正を加えた楽譜を掲載していることです。ここでその詳細について説明をいたす余裕はございませんが、いま御話した箇所の後に、山田は音楽において自由なリズムが必要なことを説いています。そこでも彼はシューマンの有名なピアノ曲「トロイメライ」を取り上げ、それを変拍子で書き直した譜例を付しております。そして話しを器楽曲から歌曲に進め、白秋の「この道」を例に自身の作例を引用し、変拍子による作曲の必要性を具体的に説明しております。ことばと音楽のかかわりにこだわりつづけた山田の理念を如実に反映した好例とい得るでしょう。

 さて第二部最初のステージは1917年に作曲された歌曲集「澄月集」です。これは山田耕作の歌曲中期、すなわち山田の渡米の時期から白秋との出会いまでの間の最初の作品であります。寺崎悦子の短歌五首によってつくられたもの。この時代は西洋音楽を受け入れた日本が、自分達なりの表現を模作しはじめた時期であり、おりしも日本伝統音楽の側では新日本音楽や新民謡といった運動が起こった時代でありました。山田耕作はこの歌曲集にいわゆる四七抜き節を使用し、またリズム面では追分節に通じるような、自由な処理が施され、日本的な情緒を醸し出すことに成功しているといえます。こうした手法は彼の初期の作品、本日のプログラムでいえば第一部後半で歌われた「のばら」、「唄」では、音階・リズム面共にまだ明確な形にはなっておりません。先に御話しました山田自身の言葉と音楽との親密な関係、彼自身は「詩曲融合」という言葉を用いてますが、そのアイデアがこれ以降、彼の歌曲創作の方向性を定めていったのではないかと思います。旋律に四七抜き音階を使用したことはともかく、言葉の扱いについては、日本の伝統音楽に頼っていないことは不思議とも思えることですが、彼の鋭い感性と天性の創造力によって日本的なるものの一つの典型に到達していることは疑いを入れない事実であろうかとおもいます。「澄月集」は彼が渡米したおりに英訳付きでニューヨークで出版されています。

話し2

さて次は本日最後のプログラムとなりますが、ここで晩年の山田耕作の活動についてお話しておきたいと思います。指導者としての著作には、「和声学講話」、「音楽十二講」、そして先に触れました「アルス音楽大講座」が残されています。いずれも堂々たる規模の著作であり、西洋音楽の日本での普及にかける彼の意気込みが伝わってくるような感じがいたします。また社会的にも日本での楽劇運動創作活動にたずさわり、次のような成果を残しています。

1914 ドイツ表現主義の作品展主催

1915 東京フィルハーモニー管弦楽部創設

1916 小山内薫と「新劇場」創立

1920 日本楽劇教会設立

1926 日本交響楽協会定期演奏会開催

戦後1958年4月、相愛大学音楽学部の創設に尽力。山田耕作は学部長となるなど、枚挙に暇がありません。

小沢征爾によれば「日本に本格的に西洋音楽を持ち込んだのは近衛秀麿、山田耕作、斉藤秀雄の3人」だということです。

「日本に純音楽はなかった」と断言し、ヴァーグナーに傾倒しながらも、そこに留まることを潔しとせず、ワグナーの「総合芸術」を越える「融合芸術」を目指した山田耕作は、文字どおり日本近代音楽の黎明期における巨人であったと言いうるでしょう。さきに触れました映画「ここに泉あり」は昭和32年、山田がなくなる8年前の制作ですが、すでにこれに先立つこと10年前に、左半身の自由が利かなくなっておりました。映画の中では右手のみで、最後にベートーヴェンの第九を振っていた場面が印象に残っております。

最後のステージになりましたが、ここでは詩人の北原白秋の詩に作曲した歌曲の数々を聴いていただきたいと思います。からたちの花は山田耕作にとってことのほか思い入れの深い作品であったに違いありません。なぜなら彼が印刷所に身を寄せていた時代、空腹に耐えられなくなると、庭にあるカラタチの実を食べて、空腹をいやしたからです。山田耕作によれば、「カラタチの、白い花、青い刺、そしてあのまろい金の実、それは・・・私のノスタルジアだ。そのノスタルジアが白秋によって詩となり、あの歌となったのだ。」とのべています。

1965年12月29日山田耕作は世田谷成城の自宅で79才の生涯を閉じました。翌年築地本願寺で行われた葬儀では会葬者3000人が参加。まことに彼の人生の最期にふさわしいものと言えましょう。それでは最期のステージをお楽しみください。

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