日本音楽理論研究会

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第 20回泉の会 Vocal Concert ~伝えたい日本のうた~ながれ~( 1998年8月22日、熊本県立劇場コンサートホール)プログラムより

第1部

 「伝えたい日本の“うた”…」と題された本日のプログラムは,おおよそ明治期から現在までの間に,わが国で作編曲され,歌いつがれてきた日本の“うた”で構成されています.プログラム第1部で取り上げられている“うた”は,大きく二つに分けられます.ひとつは今日の日本の“うた”の源流ともいえる「唱歌」.もう一つは大正時代に高まりを見せ,社会的にも大きな影響を与えた「童謡」です.

 200年におよぶ鎖国を解き,大きく変化を遂げた諸外国との国交開始にあたって,時の政府は「学制」発布により,国民の教育制度を整備することとなります.それは単に読み書き算盤(そろばん)にとどまらず,子供達の情操教育の環境を整えることをも意味していました.そのひとつ唱歌の科目は,音楽取調掛が設置され,井沢修二が米国の留学を終えて帰国すると,音楽教師メーソンを迎えることでその一歩を踏み出したのでした.

 ところで唱歌教育を始めるにあたって,当時の関係者は「和洋二様の音楽を学び,もって唱歌を作るべきである」と考えました.伝統的な邦楽は酒席などで歌われるので,新しい時代の教育には適さないという考えもあったようです.そのようなわけで初期の唱歌には外国の民謡を替え歌にしたものが多く用いられました.それでもすこしでも親しみやすくする為でしょうか,日本と音階構造の似ている,つまり「四七抜き節」とよばれる5音音階を用いたスコットランド民謡などが取り入れられたのでした.「アニーローリー」,「庭の千草」(プログラム第2番)などはことあるごとに歌われ,「蛍の光」(スコットランド民謡)とならんで日本の代表的愛唱歌となっています.日本オリジナルの唱歌としてはもちろんの「春の小川」(岡野貞一作曲)「われは海の子」,「村まつり」,「冬景色」,(プログラム第4番),「荒城の月」,「花」(プログラム第5番),さらに年代は後になりますが「家路」,「椰子の実」(プログラム第3番)をこの範疇に含めることができるでしょう.

 さて大正中期(1917年ごろ)になるとは,西洋音楽を受け入れた日本が自分たちなりの表現を模索し始めるようになります.社会的にも大正デモクラシーといった運動が見られたこの時期,伝統邦楽の側での新日本音楽や新民謡といった動きと並行して,他方大正7年(1918年)7月に,鈴木三重吉が中心となって発刊された雑誌「赤い鳥」は,従来の学校唱歌を不満とし,「根本を在来の日本の童謡に置く」新しい日本の童謡をめざしたものでした.島崎藤村,野上弥生子,芥川龍之介,北原白秋など当時の文壇を代表する文学者を巻き込んで行われたこの運動の成功に,「金の船」「少女号」「コドモノクニ」などの児童雑誌があいついで発刊され,きそって童謡を掲載しました.成田為三(1893~1945)作曲の「浜辺の歌」,弘田龍太郎(1893~1952)作曲の「浜千鳥」(プログラム第6番),「ゆりかごの歌」,「七つの子」(プログラム第7番),「ちんちん千鳥」(第二部プログラム第2番)などはこうした童謡運動の美しい結実といえるでしょう.またベルリンへ留学し,帰国後日本の楽壇に多大なる影響を与えた山田耕筰も,この分野に大きく寄与したことを忘れることはできません.日本語の日常的な抑揚をベースに,独自の旋律・拍節の法則を導き出し,一方で高踏的な芸術歌曲を残した山田耕筰は,北原白秋らの童謡詩集に触発され,折に触れそれらの詩に付曲を行い,大正15年(1926年)から翌年にかけ「童謡百曲集」として刊行します.「すかんぽの咲く頃」,「あわて床屋」,「砂山」「赤とんぼ」(プログラム第8番)はこの「童謡百曲集」におさめられたものです.また「まちぼうけ」,「ペチカ」(プログラム第8番),「からたちの花」(プログラム第9番)はそれぞれ児童雑誌「子どもの村」,「赤い鳥」に掲載されました.「赤とんぼ」はいうにおよばず,これら山田耕筰の童謡が現在においてさえ,日本の生活の中にいかに深く浸透しているかは,ここであらためてのべる必要もないでしょう.

 「童謡百曲集」の前年,大正14年(1925)にラジオ放送が開始されたことが,音楽の普及に大きな力となったことはいうまでもありません.「みかんの花咲く丘」(プログラム第7番)は,昭和21年(1946)NHKラジオ「空の劇場」での放送を通じ広く国民的な人気を得るにいたりました.

 このような創作歌曲とは別に本日のプログラムでは日本古来の民謡が歌われます.熊本県の五木村に伝わる「五木の子守歌」(プログラム第1番)と「中国地方の子守歌」(プログラム第9番).特に後者は岡山県に伝わる民謡を山田耕筰がピアノ伴奏を付し編曲を行ったもので,「さくらさくら」の編曲と共に彼の柔軟な感性がうかがえます.

 さて大正時代の音楽を語る上で忘れることができないのは,この時期に日本の「叙情歌」と呼ばれるジャンルがその姿を現し始めることでしょう.一般に「大正ロマン」とも呼ばれる独自の叙情をうたった“うた”の世界.先の弘田龍太郎,成田為三に加え,杉山長谷夫らがこの分野で活躍しました.プログラム第10番で歌われる「初恋」,「出船」,などは,当時の雰囲気をよく伝えてくれるものといえるでしょう.本日の演奏会のタイトルが日本の「うた」であり,「歌曲」でないことはゆえないことではありません.ここで一緒に歌われる「城ケ島の雨」は,時代は少し遡り大正2年(1913)の作曲です.作曲者の梁田貞(1885~1959)は「とんび」や「どんぐりころころ」といった唱歌にも名作を残しましたが,「城ケ島の雨」も今なお愛唱される日本の“うた”といえます.なお先述の「砂山」では中山晋平(1887~1952)作曲のものに加え山田耕筰の作品が並べて紹介されるので興味が尽きません.「カチューシャの唄」(1914)のヒットで世に広く知られることになった中山晋平は,流行歌の分野の草分け的存在であったのですから.

 第一部最後の曲は山田とともに日本歌曲の黎明期をになった作曲家,信時潔(1887~1965)の筆になるものです.後期ロマン派とりわけR.シュトラウスの影響の濃い山田の作風に比べると,いかにも保守的・素朴な手法といえる信時の作品ですが,それゆえに今日に至るまで根強い人気がある作曲家です.ここでは「やすくにの」が歌われます.また後半第二部でも「子どもの踊り」,「丹沢の」(第二部プログラム第4番)の2曲が歌われます

第2部

 プログラム第二部では大正末から現在までの間に作曲された日本の“うた”が歌われます.プログラムの最初は第一部で童謡がとりあげられた弘田龍太郎の筆になる「小諸なる古城のほとり」.ここには日本の叙情歌に独自の地歩を占めた弘田の感性が光ります.もう一曲は山田耕筰の「松島音頭」.土俗的なエネルギーむき出しのこの曲は山田の多面的な音楽性を示すものといえます.

 山田,信時らの次の世代になると東京音楽学校では依然山田耕筰によって導入されたドイツ・ロマン派の語法が主流であったにもかかわらず,一方では橋本国彦(1904~1949)が,フランス印象派の語法を大胆に取り入れることで新機軸をうち出し,創作を展開しました.しかし先進的な試みを果たした橋本国彦も,「お菓子と娘」,「お六娘」(プログラム第3番)のように,しゃれた,あるいは伝統的な雰囲気の作品も残していました.

 1930年代,日本の音楽界には新たな動きがみられます.1932年の作曲部門を含む音楽コンクールの開始.さらに1935年にはロシアの作曲家チェレプニン(1899~1977),1937年には指揮者ワインガルトナーによる賞の設定などが,作曲活動を促進することとなります.こうした状況の中で登場してきた作曲家が平井康三郎(1910~),清水脩(1911~1986),山田一雄(1912~1991),石渡日出夫(いしわたひでお)(1912~),高田三郎(1913~)でした.平明さと「日本的なるもの」と「声楽的志向」の均衡のとれた作風の平井.オペラ,合唱のみならず歌曲の世界でも,代表作「智恵子抄」にみられるように,ストイックな態度を貫きながら,豊かな語法を駆使した清水.一般には指揮者として高名であった山田は,実は上記ワインガルトナー賞を授賞していました.萩原朔太郎,中原中也の詩との出会いで抒情の世界を築いた石渡.近代フランスの語法を取り入れながらも,その簡潔さに特徴を持つ高田.この世代の日本歌曲は先達によって築かれた基盤から,それぞれの思いと感性によって,多様な世界を開拓していくことになります.本日はこの世代の作品として平井康三郎の作品から「平城山」,「九十九里浜」(プログラム第5番)の2曲が歌われます.

 終戦後の荒廃の中,いち早く1946年に結成された「新声会」は,作曲家と演奏家が協力する形で,メンバーの自作品のみならず世界の新作の紹介に務め,戦後日本の作曲活動の出発点のひとつとなりました.会員の中には中田喜直(1923~),団伊玖磨(1924~)といった作曲家が名を連ね,そうそうたる顔ぶれといってよいものでした.山田耕筰賞を受賞した団伊玖磨の作品からは「ひぐらし」,「舟歌」(プログラム第5番),「花の街」,「さより」(プログラム第6番)が歌われます.戦後の世界の音楽界は前衛的・実験的創作が行われ,日本においてもそれは例外ではありませんでした.そのなかにあってひとり中田喜直は前衛的な手法をきらい,あくまで平易な,誰にでもなじめるスタイルを守り,それは現在でも変わることはありません.彼の歌曲が,どれほど私たちの生活に溶け込んでいるか.それは「夏の思いで」,「雪の降るまちを」(プログラム第9番)などを思い出せば充分でしょう.中田喜直の作品はほかに「さくら横ちょう」,中田作品の中では鮮烈な表現の「サルビア」(プログラム第8番)が歌われます.ところで団伊玖磨の「花の街」,中田喜直の「夏の思いで」,「雪の降るまちを」は,いずれもNHKのラジオ歌謡を通じて人々に親しまれるようになったもので,あらためてラジオ,テレビなどのマスコミの影響力の大きさに気づかされます.

 さらに新しい世代の作曲家,小林秀雄(1931~)の作品からは「落葉松」(プログラム第六番)が歌われます.シンプルな和声と,平明なしかし輪郭の明瞭な旋律にのって歌われるこの曲は,戦後世代を代表する叙情派小林秀雄の代表作といえます.

 プログラム第9番は本日の特別ゲスト,南弘明先生の作品です.早くからシンセサイザーを活用し,マルチメディアの世界で仕事をされている先生の,万葉の世界との出会いからどのような世界が現れてくるのでしょうか.こればかりは聴いてみてのお楽しみとさせていただきたいと思います.

 本日のプログラムは再び「唱歌」で結ばれます.高野辰之作詞/岡野貞一作曲「ふるさと」です.大正3年6月に「尋常小学唱歌(六)」に収められた唱歌ですが,現在でもその魅力はいささかも衰えてはいないようです.ちなみに岡野は鳥取出身,作詞者の高野は長野出身でした.やはり唱歌の名作「早春賦」の作詞者吉丸一昌も大分の出身でした.当初は全国にその出身地が分散していた作曲家の出身地も,大正末期以降東京とその周辺に集中していきます.近代歌曲の歩みもまた,東京への一極集中の流れに絡め取られていったのでしょうか.もし私たちに今日日本歌曲の限界が感じられるとすれば,東京の情緒すなわち日本の情緒という現在の状況にこそ,その原因があるのかもしれません.

文 小川伊作

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